神戸周辺の城を訪ねて【第1回 花熊城】

神戸周辺の城を訪ねて【第1回 花熊城】

道谷 卓(追手門学院大学法学部教授・神戸深江生活文化史料館副館長)

はじめに

今年(令和8年)の大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代では、織田信長から豊臣秀吉へと政権が受け継がれていく過程で、神戸周辺の城を舞台として合戦が繰り広げられている。そこで、今回の神戸市民生協「歴史探訪通信」では、この時代の神戸周辺の城とそれにまつわる合戦について紹介することにしよう。

花隈公園(神戸市中央区花隈町)

神戸高速鉄道花隈駅を東にすぐのところにある花隈公園は、城跡のような石垣が積まれている。そして、この公園の中には、「花隈城趾」という碑が建っており、もともとこの辺りには、神戸を代表する近世城郭、「花熊城」があった。このように書くとこの石垣も、花熊城時代のものと思われがちであるが、今の石垣は、花隈公園が1969(昭和44)年に、公園の整備とその中に地下駐車場を建設する際に、城の雰囲気を出すため、城郭風の石垣を積んだ公園にしたというものである。この整備の前から、この場所には、1928(昭和3)年に建てられた「花隈城趾」という碑が建っていたが、この石碑は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で倒壊したため、現在では、元の碑を忠実に模造した複製品が公園内に建てられている。なお、碑の文字は石碑建立当時の岡山池田家当主・侯爵池田宣政によるものだ。

「花隈城趾」の碑の隣に「東郷井」の碑が置かれている。この碑はもともと公園の北の方にあったが、その敷地のビル建設により今の場所に移された。碑のあったもとの場所は、日本で最初に映画を上映した場所として知られる神港倶楽部があった所で、その前庭に清水の湧き出た古井泉があり、それを俗に「東郷井」と呼んでいた。「東郷井」の名称は、日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破させた事で知られる海軍の東郷平八郎元帥にちなんでおり、彼は、1885(明治18)年、小野浜で建造中だった軍艦「大和」の監督官として来神し、神港倶楽部の敷地内にあった和洋折衷の家に一年間ほど住み、毎日、そこに湧く古井泉と親しんでいた。

「ハナクマ」という地名

ところで、城名に使われている「花隈(ハナクマ)」という名前であるが、史料によれば、「花熊」、「鼻熊」、「鼻隈」とも書かれており、漢字に統一性はない。というのもこの名前、すなわち地名は、漢字より「ハナクマ」という読みの方が重要で、神戸の海に面して突き出た台地、つまり「ハナクマ」からきていると言われており、それに様々な漢字が充てられるようになったことから、統一性のない漢字表記となったのである。なお、ここでは、近世城郭としてあらわす際は「花熊」城を、公園としてあらわす際は「花隈」公園というように表記しておくことにする。

花熊城について

さて、花熊城の築城については、1568(永禄11)年に摂津国守護となった和田惟政(これまさ)が築いたという説、1574(天正2)年に織田信長の命によって荒木摂津守村重が毛利氏と石山本願寺の海上交通を遮断するために築いたという説があるが、後者の方が有力である。いずれにせよ、花熊城は、1574年に摂津国の支配を織田信長に任された伊丹・有岡城の城主、荒木村重の支城であり、家老の荒木志摩守元清がこの城を守っていた。

「摂津国花熊之城図」部分(原本:岡山大学附属図書館池田家文庫所蔵)
画像出典:神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ「絵図(岡山藩池田文庫)写」

この花熊城、どれくらいの規模を誇っていたのであろうか。手がかりとなるのは、岡山大学所蔵の池田文庫「摂津花熊之城図」という史料があり、それによれば、城を三つのブロックに分け、中央に本丸・二ノ丸・三ノ丸が、東部に侍屋敷と足軽町が、西部に町家が描かれている。そして、この図には、中央部の本丸に天守が備わっており、本丸と二ノ丸・三ノ丸をあわせた周囲には堀がめぐらされ、近世城郭の様相を呈していることが読み取れる。この図の城構えを現在の地形にあてはめてみると、花熊城は東は神戸市立神戸生田中学校の東の南北の道路、西は花隈町と下山手通8丁目の境の南北の道路、南はJRの高架線、北は兵庫県庁南の東西の筋で囲まれた範囲にあたると推定される。

そして、花隈公園の北西にある福徳寺の門前には「花隈城天主閣跡」の碑が建てられており、この寺のあたりが城の本丸があった場所だと推定される。なお、この寺は、1205(元久2)年、関白・九条兼実が建立した浄土宗の寺院で、門前の石碑は1969(昭和44)年に、花熊城の戦いで敗れた荒木元清の20代目にあたる子孫が、戦いでの物故者の四百回忌法要記念として建てたものである。

花熊城の戦い-花熊合戦-

荒木村重の居城・有岡城の支城として大きな役割を果たしてきたこの城の運命もそれほど長くはなかった。花熊城は荒木村重支配の下、家老の荒木元清が管理していたが、村重が織田信長に重大な嫌疑をかけられてしまうというハプニングがおこってしまった。これは村重の部下が、ひそかに当時信長と対立していた石山本願寺に物資を供給しているという疑いであった。いったん疑われると、信長の性格上それを覆すのは困難と考えた村重は、毛利氏に援軍を頼み、1578(天正6)年10月に信長に対してとうとう反旗を叛すに至ったのである。

その時の様子が『信長公記』に記されており、天正6年霜月(11月)の末、信長が「滝川左近、惟住五郎左衛門両人差遣され、……御敵荒木志摩守鼻熊に楯篭り候」とある。世に言う「花熊合戦」である。村重は、有岡城に1年近く籠城した後、尼崎城に移り半年近く立て籠もったあと花熊城へ逃げ込み、ここも陥落しそうになると逃亡して、最後は毛利氏を頼って亡命し、尾道に隠遁したと言われている(有岡城での攻防の詳細は、「第2回 有岡城」で紹介する予定)。

最終的には、信長が、池田恒興(信輝)、輝政親子に花熊城攻撃を命じ、1580(天正8)年2月に城は陥落するのであった。落城後、恒興はこの城の材料の一部を使って兵庫城を築き、一部の石は大坂城を築くときに運ばれたという。

花熊城と花熊合戦の歴史的意義

江戸時代、城下町としてではなく、港町として発展したのちの神戸のまちにとっては、近世城郭・「花熊城」が神戸の市街地にあったということを証明する歴史の足跡が「花隈公園」だと言えよう。また、「花熊合戦」は、織田信長に反旗を翻した荒木村重が信長方の池田恒興・輝政親子と戦い、池田軍に敗れるというものであったものの、この戦いをきっかけに、信長は西国の毛利攻めを本格化させるのであり、この戦いは戦国時代を抜け出し織豊政権時代の幕開け(中世から近世への過渡期)となるきっかけをつくった、すなわち、時代を変えた戦いなのである。