【後編】神戸市民生協誕生の年に生まれた神戸の観光スポット~奥摩耶遊園地~<神戸市民生協 創立70周年>
道谷 卓(追手門学院大学法学部教授・神戸深江生活文化史料館副館長)
掬星台

ロープウェーの終点・摩耶山上駅の前には「掬星台」が広がり、今では、日本三大夜景の一つと称され、神戸を代表する観光スポットになっている。その名前は、「手で星を掬える」ほどの夜景が広がっていることから来ており、また、このあたりは六甲山地の中でもとりわけ展望が良く、神戸・阪神間の市街地から大阪湾、紀伊半島、淡路島、四国までの眺望を楽しむことが出来、旧国名の八ヵ国を眺めることができたから「八州嶺」とも呼ばれていた。掬星台にある約40m遊歩道は、蛍光剤で舗装され「摩耶★きらきら小径」と呼ばれ、天の川をモチーフに、星座が描かれている。

さて、この掬星台だが、ロープウェー開設のために切り開かれた広場ではない。標高690mに位置するこの場所は、かつて、どんぐり山と呼ばれ、太平洋戦争中に高射砲陣地として切り開かれた場所なのである。つまり、戦時中に米軍の戦闘機を打ち落とすための高射砲を設置するために山を切り開いたもので、実際に高射砲も置かれた。戦争が終わり、高射砲も撤去されたことで、この広場が、掬星台として生まれ変わるのである。
奥摩耶遊園地


摩耶ロープウェー開業と同時(1955年7月12日)に、掬星台の広場には、神戸市交通局が複合レジャー施設として開発した「奥摩耶遊園地」を開業した(「摩耶ケーブル遊園地」とも言われていた)。
掬星台の展望台をメインに、園内には「マウントコースター(ジェットコースター)」など数多くの遊具が設置され、冬季にはスケート場も開かれ、多くの家族連れでにぎわった。


今でも、マウントコースターの跡地にあたる「こどもの丘」は、軌道跡が石畳となり、壁にはうっすらと「ジェットコースター」の文字が残されている。

このほか、当時のパンフレットからは、ムーンロケット、渦巻きカー、ロマンスミキサー、ジャイロと言うような乗り物があったことがわかる。

また、掬星台の展望台には、開業当時の展望台の名残として、現在の手すりの下に、背の低い手すりが残されており、当時の展望台の位置がわかるようになっている。
ロープウェー開業からしばらくは、多くの来場者が訪れ、子どもたちにも人気の観光スポットであったが、高度経済成長の中で自動車が普及しだすと、ロープウェーを利用する人も減少し、それに伴い、遊園地の利用客も減少していき、1970年代初頭には、その姿を消すことになった。なお、遊園地の奥には、前年(1954年)に開業している「奥摩耶山荘」があり、全32室100名収容の宿泊施設として賑わったが、遊園地閉園の時期にこちらも営業を停止し、建物は撤去された(その後、この地には「国民宿舎摩耶ロッジ」が新築、再オープンしている(「オテル・ド・マヤ」の前身)。
おわりに

神戸市民生協誕生の年に開業した「奥摩耶遊園地」と「摩耶ロープウェー」。遊園地は、閉園してしまったが、ロープウェーはケーブルとともに健在である。自動車で気軽に摩耶山に登るのも良いが、開業100年のケーブルと開業70年のロープウェーを利用して摩耶山頂まで行き、掬星台からの眺めを堪能したついでに遊園地跡の痕跡を探ってみるのも興味深いと思う。

