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【前編】神戸市民生協誕生の年に生まれた神戸の観光スポット~摩耶山と摩耶ロープウェー~<神戸市民生協 創立70周年>

【前編】神戸市民生協誕生の年に生まれた神戸の観光スポット~摩耶山と摩耶ロープウェー~<神戸市民生協 創立70周年>

道谷 卓(追手門学院大学法学部教授・神戸深江生活文化史料館副館長)

はじめに

神戸市民生協が誕生した1955年(昭和30)、今でも神戸の人気観光スポットである摩耶山に遊園地が誕生したことを知る人は少ない。その名も「奥摩耶遊園地」で、今の掬星台にその遊園地はあった。今はなきこの遊園地にスポットをあて、知られざる摩耶山の歴史を紹介することにしよう。

摩耶山と忉利天上寺(とうりてんじょうじ)

忉利天上寺の門

神戸市灘区の摩耶山は、六甲山地の中央に位置する標高702 mの山で、山の名前は、お釈迦さんの生母・摩耶夫人(まやぶにん)から来ている。

忉利天上寺 金堂(本堂)
忉利天上寺鳥居

もともと平安時代に空海が唐に渡った時に入手した摩耶夫人像をこの地に奉安したことから摩耶山という名前が付けられた。また、山中にある寺院は、摩耶夫人が転生した忉利天にちなんでこの像を安置しているので、その名前を忉利天上寺と名付けたと言われている。

忉利天上寺の法道仙人

忉利天上寺はもともと、孝徳天皇勅願寺として646年(大化2)に法道仙人(インド高僧)によって開創されたと言われ、この時仙人がインドから中国を経て伝えた十一面観音を本尊とした。その後、空海が唐から持ち帰った摩耶夫人像もあわせて本尊とし、寺を拡大していった。

鎌倉時代の終わり、後醍醐天皇による倒幕運動が激しくなる中、1333年(元弘3)に赤松則村が摩耶山に摩耶山城を築き、ここを拠点に鎌倉幕府の六波羅探題軍と戦って、それを打ち破るという摩耶山合戦の舞台に、忉利天上寺を含む摩耶山一帯がなった。

江戸時代になると、三代将軍徳川家光が摂津国の護国寺に選び、七堂伽藍を有する山岳寺院として発展し、御三家の紀州徳川家が将軍家の代参をつとめたことで、紀州家とのつながりが強まることとなった。

摩耶ケーブル

摩耶ケーブル駅
虹の駅(摩耶ケーブル)

摩耶山の山頂手前にあった忉利天上寺の伽藍(1976年<昭和51>に放火のため全焼し、現在は山頂付近に移転・再建)には、明治時代以降も多くの参詣者が訪れたことから、その参詣用として1925年(大正14)1月6日に、路線距離0.9㎞の摩耶ケーブル(開業当時の名称は摩耶鋼索鉄道)が開設されることとなった。ケーブルには、摩耶駅(現在の虹の駅) と高尾駅(現在の摩耶ケーブル駅)が設置され、所要時間、約5分で結ばれることとなった(摩耶ケーブルは今年が開業100周年になる)。

旧摩耶観光ホテル

その後、山中の摩耶駅付近には、1930年(昭和5)に、旧「摩耶観光ホテル」(開業時は「摩耶倶楽部」と言った)が開業し、寺への参詣客とホテルの利用客で、山は結構な賑わいを見せていた。この摩耶観光ホテルは、今北乙吉の設計、アールデコ風建築様式の鉄筋コンクリート造で、軍艦を連想される外見から「軍艦ホテル」と呼ばれた。

旧摩耶観光ホテル説明

しかし、太平洋戦争が激化していく中、1944年(昭和19)、ケーブルは不要不急線として休止を余儀なくされて路線も撤去されてしまい、また、ホテルも1945年に営業を休止した。なお、ホテルは、戦後しばらくして再開したものの、1970年(昭和45)に閉業し、その後、「摩耶学生センター」として転用されたが、それも1993年(平成5)に使用停止されたあとは廃墟化していった。なお、廃墟ブームの中、この建物は2021年(令和3)、国の登録有形文化財に登録されている。

摩耶ロープウェー

摩耶ロープウェー開通当時<提供:こうべ未来都市機構>

終戦後、戦時中に路線撤去された摩耶ケーブルの再開を決めてその準備に取り掛かるとともに、ケーブル摩耶駅から摩耶山頂までをロープウェーでつなぐ計画を立て、それを実行することになった。

摩耶ロープウェーから見た神戸

神戸市民生協が誕生した1955年(昭和30)の7月12日、摩耶ロープウェーが開業し、その年の5月7日に再開していた摩耶ケーブルを利用することで、麓から山を歩くことなく、ケーブルとロープウェーを乗り継いで摩耶山頂へ行くことが可能になったのである。

星の駅(摩耶ロープウェー)

開業当初は、神戸市交通局奥摩耶ロープウェーと呼ばれていたが、その後、神戸市都市整備公社に移管され、摩耶ロープウェーと改称され、現在では摩耶ケーブルとともにこうべ未来都市機構に移管されている。摩耶駅(現・虹の駅)と摩耶山上駅(現・星の駅)を結び、全長856mで、所要時間は約6分である。

摩耶ロープウェー 初代ゴンドラ「すずかぜ」<提供:こうべ未来都市機構>

開業時のゴンドラは、神戸市交通局が運営していたこともあり、車体が丸みを帯び、白を基調に緑の縁取りで神戸市バスを意識した配色になっていた。

後編へ続く